21 「痛み」は不思議です。極めて主観的で,同じ事象を経験したとしても人によってその痛みの程度 が違うのはなぜなのでしょう? 身体の痛みとこころの痛みはまた別のものなのでしょうか? 痛 みとは何かを理解するためのいくつかのトピックについて紹介します。 (下津咲絵)
痛みの心理学
痛み(pain)とは感情である 「痛みは感情です」と言うと, 「単なる感覚にすぎないのでは?」 と反論されることでしょう。確か に歴史的に,痛みは感覚,あるい は脊髄反射,触覚の亜型とされて きた時代が長かったのです。しか し1990年代から発達した,非侵 襲的で,ヒトを対象とした脳機能 解析が進むに従い,痛みを「感 情」として捉えるほうが,我々を 取り巻く様々な痛みに関する事象 を,より認知科学的,論理的に理 解できるようになってきました。 まず,痛みは「感覚・感情・ 認知面を伴った苦悩体験」と定 義されていて(Williams&Craig, 2016),必ずしも組織損傷の有無 を問いません。怪我(組織損傷) の有無にかかわらず,我々は痛み を想起したり,感じたりすること ができます。また同時に,痛みに よって不安や怒り,恐れを感じ, 行動を制限したり,逃避行動をお こしたりと,我々の認知・行動, 生活に影響を及ぼします。さらに は,我々の文化や宗旨,体調,ラ イフスタイルの違いによって,痛 みの感じ方(痛みの認知)は千差 万別であり,個体差はもちろん, 同一個体内によっても(例えば, 朝と夜でも)異なってくるわけで す。 つまり痛みは,単なる感覚では なく,極めて個人的で主観的な体 験です。痛みをヒトの認知・感情 活動と理解することにより,我々 の環境や行動,ライフスタイルを 意図的に操作し,痛みをコント ロールすることができます。つま り,痛みとは何かを自然科学的に 理解すれば,痛みの治療はもちろ ん,現代における我々の 生活をより豊かにするこ とができる,といっても 過言ではありません。 侵害受容情報の大脳へ の伝達と「痛み」体験 脳機能画像解析の普及 により,ヒトの認知・感 情活動を視覚化できるよ うになり,痛みは「単な る痛覚伝達」から「認 知・感情活動」へと移行 しました。混同しやすい のは,「痛み」というの は最終的に大脳で認知統 合される感覚・認知・感 情体験であり,組織障害 による純粋な感覚とし ての痛覚は「侵害受容」と呼び, 「痛み」とは明確に区別します。 身体が侵害受容刺激を受けたと き,末梢神経,脊髄痛覚伝導路 を通して,純粋な痛覚(侵害受 容)情報が,痛み関連脳領域に伝 えられます。痛み関連脳領域と は,痛み刺激に対して活発化する 脳領域ネットワークのことで,主 に第一次体性感覚野,第二次体性 感覚野,島,帯状回など,広範 な脳領域を含みます(Tracey&小特集
痛みとは何か
群馬大学医学部附属病院 講師荻野祐一
(おぎの ゆういち) Profile─荻野祐一 1998年,群馬大学医学部卒業。2007年,群馬大学大学院博士課程修了。医学博士, 日本麻酔科学会専門医・指導医,日本ペインクリニック学会専門医。専門は麻酔科 学,疼痛科学,脳科学。 図 1 痛覚伝導路(乾・柿木 , 2006 をもと に作成) 走行経路から,内側系と外側系に大別され ます。機能的には,内側系経路は痛みの感 情面や自律神経系に,外側系経路は痛みの 判別的側面(強さや場所)に関与すると考 えられています。実際にはこのような単純 な二分で痛覚系を説明し得るとは考えにく く,お互いの経路がそれぞれの役割を補完 し合っていると考えられています。22 Mantyh,2007)。侵害受容情報は, 大別して,二つの経路─内側系経 路と外側系経路を通過し,痛み関 連脳領域に到達して「痛み」体験 として統合されます(図1)。 大 事 な の は, 痛 み の 定 義 (Williams&Craig,2016) ど お り,たとえ侵害受容情報が無くと も,ヒトは実際に痛みを感じる ことはできるし,その際の脳活 動は痛み関連脳領域の活発化を 呈する,という事実です(Ogino, etal.,2007)。我々はfMRIを用い て,痛そうな画像を見て「痛みを 想像」した際,実験参加者の「痛 み関連脳領域」が活性化すること を示し,侵害受容が無くとも痛み を脳内で再現していることを示 しました(図2)。その後,痛み 関連脳領域は様々な警告的な刺 激に反応することがわかり,痛 みだけに反応する(痛み特異的 な)ネットワークというより,生 体にとって重要な感覚情報を検出 するネットワークとされています (Iannetti&Mouraux,2010)。 痛み体験の修飾 心頭滅却すれば火もまた涼し─ これは快川禅師という高僧が,織 田信長に寺を焼き討ちにされた 際,火中に端座して死を受け入れ つつ唱えた辞世の句として知られ ています。火中にありながら平然 としていられることは常人ではで きませんが,スポーツの試合中に 夢中になっている際に怪我に気付 かない,試合が終わった後に初め て痛みを感じた,などという体験 は誰しも一度は経験があるのでは ないでしょうか。 そもそも我々が痛みから手を 引っ込めたりするのは,痛みが不 快で嫌なものとして認知するから ですが,先のスポーツ試合中の例 のように,痛み体験は,認知,注 意,期待,気分,環境,適応に より大きく変化・修飾されます。 認知による鎮痛効果は絶大であ り,その代表格であるplacebo効 果は,手術や薬物療法の効果と同 等か,それ以上と示されています (Beard,etal.,2018)。また「信じ る者は救われる」とはよく言いま すが,宗教心による鎮痛効果も, placebo効果と同様に前頭前野の 活動と脳幹部の活動(下行性抑制 系)が,強い鎮痛として作用して います。 おわりに 痛みは不快な感覚であります が,脊髄を上行して大脳に入る と,認知・感情面を伴った脳内体 験として統合されます。痛みは認 知・感情面の影響を受けやすく, 痛みとその修飾(鎮痛)は,いわ ば天秤のようなバランス関係にあ ります。昨今,痛みに対して認知 行動療法や運動療法が特に注目さ れてきているのも,痛みの認知・ 感情面の神経基盤が明らかになっ てきたからこそです。痛みは我々 のライフスタイル(認知・感情・ 行動)を変えますが,ライフスタ イルによって痛みも変わるので す。 文 献 Williams,A.C.&Craig,K.D.(2016) Updating the definition of pain. Pain, 157,2420-2423.
Tracey,I.&Mantyh,P.W.(2007) Thecerebralsignatureforpain perception and its modulation. Neuron, 55,377-391.Review. 乾幸二・柿木隆介(2006)痛みの脳
内機構 脳と神経,58,5-15. Ogino, Y., et al.(2007) Inner
experience of pain: imagination of pain while viewing images showing painful events forms subjectivepainrepresentationin humanbrain.Cerebral Cortex, 17, 1139-1146.
Iannetti,G.D.&Mouraux,A.(2010) Fromtheneuromatrixtothepain matrix(and back). Exp Brain Res, 205,1-12.
B e a r d , D . J . , e t a l . ( 2 0 1 8 ) A r t h r o s c o p i c s u b a c r o m i a l decompression for subacromial s h o u l d e r p a i n ( C S A W ): A multicentre, pragmatic, parallel group,placebo-controlled,three-group,randomisedsurgicaltrial. Lancet, 391,329-338. 図 2 痛み画像と,画像を見て痛みを想像したときの脳活動 上段は痛みを想起させる画像で,注射された経験は誰にでもあるので, 容易にその時の痛みを想像することができます。想起時の脳活動(下段) は,前帯状回など第二次体性感覚野の活動を認め,第一次体性感覚野(痛 みの強さや場所情報)を除けば,身体的痛みを受けたときの脳活動とほ ぼ同じでした(Ogino, et al., 2007)。